日  誌

辺野古 阻止行動船カンパ
カンパ報告の頁へ 
 上記、カンパはすでに「命を守る会」に手渡し致しました。
今後、順次、カンパをいただいた団体名、また個人についてはイニシャルで報告していこうと思っています。
ありがとうございました。m(__)m

辺野古と共に!国会前座り込み
 国会座り込みの様子を毎日更新!!

2005年1月@
12月H へ 1月Aへ


 闘 春

↓をクリック

宝船と七福神

バーの「戻る」でお戻り下さい
本年も宜しくお願いします
辺 野 古 の 海 か ら 作詞・作曲 ヨッシー
♪ マジで頑張って、命がけだって、辺野古の海に基地は造らせない
   この海を守ることで、世界中の友に届け この歌
   辺野古のオジイ・オバァ達が、闘い抜いた8年間
   その思い、胸にきざみ、行くぜ、負けない気持ちカヌーに乗せて

    (※以上、ヒップホップ調のラップで)
1、辺野古の海から あなたに届けたい
 命どぅ宝の本当の意味を知った 僕らには見える未来が  ウォウォー
 戦争なんて ない世界に変えるんだ
 こんなキレイな海を壊すなんて信じられないよ
 新しい時代は 今ここから辺野古から始まる
2、 辺野古の海から あなたに届けたい
   信じていいよ 人間は素晴らしい
  教えてくれた 辺野古で闘う人たちが
 沖縄の心 それは世界を変えるんだ
 こんなキレイな海を壊すなんて信じられないよ 
 新しい時代は 今ここから辺野古から始まる
 こんなキレイな海を壊すなんて信じられないよ
 新しい時代は 今ここから辺野古から始まる
 今ここから 僕らが始める  Woo
♪ (※以下、ヒップホップ調のラップに戻る)
   
マジで頑張って、命がけだって、辺野古の海に基地は造らせない
   この海を守ることで、世界中の友に届け、この歌
   辺野古のオジイ・オバァ達が、闘い抜いた8年間
   その思い、胸にきざみ、行くぜ、負けない気持ちカヌーに乗せて

  Yoh Yoh Yoh Yoh  闘って 闘って 闘って 今日も陽が暮れる
  Yoh Yoh Yoh Yoh 闘って 闘って 闘って 朝日が昇る
     (見て、ウミンチューたちが来た 超カッコイイ!)
  辺野古の海から愛を叫ぶ    

1月3日(月) 日誌
お客さんが寿司の差入れ  さて夕食です
メインはホットプレートと同じ位のステーキを晋くんが切り分けます お次は手羽先
 ヨッシー作の豚の角煮 則子さんのフカヒレなど正月料理
いよいよ、クレープを作ります
 晋くん、ヨッシーも挑戦
11時過ぎ、ユッ君の登場
 真夜中から新曲の練習
 気がつくと2時を過ぎていた
 明日、沖縄に戻る晋くん・SAORIちゃんたちと記念写真

1月2日(日) 日誌
元旦の夜
お雑煮です エビ・マヨ ヨッシーの作った豚の角煮
2日
 SAORIちゃんがクレープに挑戦
 則子さんも作る  ダイちゃんも作る
 う〜ん、ウマイ
飯田鮨さんからオランダ揚げの差入れ
 スペアリブの梅蒸し
 夕食は鍋  則子さん作、フカヒレ・白菜煮
ご飯の後で、
「ヨッシーとジュゴンの家」の
新曲の練習。
ダイちゃんのミニライブ


琉球新報 2005年1月3日 月 11:31

「普天間は分散移転」 山崎首相補佐官が言明

 【東京】山崎拓首相補佐官は2日までに琉球新報社の単独インタビューに応じ、米軍普天間飛行場について「(辺野古沖の代替施設完成まで)十数年かかるが、その間どうするか。分散移転を考えざるを得ない」と述べ、辺野古移設までの間、暫定的な分散移転を検討する考えを明らかにした。「すべての選択肢を検討したい」とも述べ、本土への移設も視野にあることを示唆した。再編協議が整う時期については「小泉政権はあと1年9カ月ある。その間だ」と述べ、首相の任期中に決着するとの見通しを示した。

 山崎補佐官は「再編協議で普天間は大きな目玉だ。この際、一気に解決したい。SACOの枠内でなく、今回の再編協議であらためて取り上げたい」と普天間基地の問題解決に強い意欲を示した。日米協議で取り上げる方針について同補佐官が直接、米側に伝えたことも明らかにした。

 半面「辺野古沖に最終的に施設を造るという方針は変更するわけにはいかない」とも述べ、分散移転は暫定的なもので、最終的には辺野古沖への移設を目指すとの考えを示した。

 一方で「これは大変な作業だ。構想を発表した瞬間に駄目になる。選択肢を特定して言うわけにはいかない」とも述べ、移転協議は慎重に進める方針を示した。

 普天間以外の在沖海兵隊の基地については「SACO(日米特別行動委)(最終報告)は遅れているが、進めていく。新たなものは、そ上に載っていない」と述べるにとどめた。

 山崎氏は特命事項担当の首相補佐官で、米軍再編で調整役を担うと目されている。11月の県内での講演では、普天間返還を加速させる考えを示していた。



1月1日(土) 日誌
 大晦日には珍しく雪が降っています
 雪かきするハネやん。
「デモより大変だわ」
 沖縄のモーイ豆腐を作る
 夕食です ハネやん特製エビマヨ
 トミタさん作の黒豆 チューやんのボコボコ寒天、
則子さん作のモーイ豆腐
信州手折れそばで年越し
 佐竹さんがいました

晋くん日誌    「ジュゴンの家」日誌より
激動の一年を振り返る。2004,12,28
12月28日(水)
・防衛施設局による違法な強行調査は行なわれていません。

今朝はゆっくりとした朝を迎えられました。
今朝の新聞紙面において防衛施設局は「年内の掘削作業を断念。27日以降の作業は行なわない。年始は5日以降の作業再開とする。」と発表しています。
発表の通り、今日は警戒船一隻しか海上には出ておらず、私達も海上には出ていません。
そして、防衛施設局はスパット台船の設置に伴って海底にあるさんご礁の破壊を認めました。11月の時点では「サンゴとサンゴ礁は違う。破壊されたサンゴはすでに死んでいた。」などと開き直っていましたが、「30数箇所の岩礁の破壊が認められる。」としました。「岩礁の破砕」は環境アセスメント法の適用を意味します。
県側は「だから、県は環境には配慮しなさいと言っているじゃないか。」と意味のわからない開き直りを繰り返しています。国と県が法律違反をしている可能性をこれからも追求していく必要があると考えます。
27日(火)にはボーリング調査差し止めを求める訴訟が起こされています。もちろんのことですが、私も原告団の一人です。現在緊急の呼びかけにもかかわらず68名もの人々が原告団として名乗りを上げています。

・基地建設に反対する市民や団体、近隣海域の漁業者が調査差し止めを要求する理由
「ボーリング調査によって、原告らの人格権や環境権、平和的生存権が侵害、または侵害される危険が切迫している」
「新基地建設と一体であるだけでなく、極めて大規模な工事を伴い、それ自体が自然環境に重大な影響をもたらす環境影響評価法違反」
「漁業者は漁業権の侵害」


・激動の1年を振り返る。(私から見た一年を。)

自分自身にとっても本当に激動の1年でした。振り返りたいと思います。

本年よりもさらに1年前、防衛施設局が「ボーリング調査の事前調査を行なう」として1997年以来初めて辺野古に襲い掛かった2003年4月8日午前6時30分。
多くの思いのある人々が現場の漁港に間に合うことが出来ず、漁港に立ち、防衛施設局に立ち向かったのは私を含めたったの6人でした。
その時の金城祐冶さん(命を守る会代表)の後姿は今でも忘れられません。「ここは辺野古だ!!私は辺野古の人間だ!!防衛施設局員よ、私に説明する責任があるだろう!!説明しなさい。」祐治さんが必死に訴える。現場にいた人間は後に続きました。
しかし、この8年間説明責任を果たしていない防衛施設局(国)は辺野古の住人である祐治さん含め、私達を除け者扱いし、防衛施設局員数人の手によって排除しました。
目の前で資材が積まれ、作業船が出て行く。何も出来ない。何も出来なかった!!
「歴史が動く時はいつもストレスよ。したたかにね。」その時に私に平良えつみさんがかけてくださった言葉は忘れない。負けてはならない、全ての国の生きる人々のために。私は漁港でくやし涙を流しながら立ち尽くしていました。

自分がなぜ辺野古にいるのか。とても問われた日でもありました。
「わったー達が倒れても種1つでも木一本でもそこに残っていいればこの闘いはわったーたーの勝ちさ!!」おばぁの言葉が心にこだまする。
私が沖縄に強いてきた現実。私は大和人として大和でも沖縄でも責任をとる。私はおばぁ達と共に生き、闘うことを本気になって決めた日でした。

この状況を変えるため。多くの人達が沖縄中、日本中で行動を開始しました。
辺野古では「金曜集会」(米総領事館前で基地撤去を訴えて毎週金曜日に沖縄の女性たちが集会を開いています。「金曜集会」も韓国のハルモニ達が日本大使館に向かって開いている「水曜集会」を学び作られたものです。)に学び「土曜浜集会」が始まり、そこで「カヌー隊」が作られます。
辺野古の状況を知らない人々に伝えるとても大事な作業を本当に丁寧に多くの人達が行い、人を繋げてくれました。

そして、2004年4月19日午前5時。防衛施設局が「ボーリング調査に着手」するとした日(具体的にはボーリング調査のための資材ヤードを辺野古漁港に強行建設しようとした。)。私は祐治さんと共に発表があった19日より3日前から命を守る会事務所に泊まり込みをしていました。その日、期待と不安感でドキドキしながら事務所を開けたのを思い出します。
「一体何人の人々が駆けつけてくれているのだろうか。」
事務所を開けると200名人達がすでに待ち構えていたのです。涙の出る思いでした。沖縄の怒りが基地建設を止めるために、この国を変えるために立ち上がった瞬間でした。
午前5時30分に乗り込んできた防衛施設局をみんなで止め、だまし討ち的に2度の強行に打って出た防衛施設局をまたも止めました。
それから144日間に渡って完全に調査を止め、海にさえ出させない状況を作り出しました。県民の80%がこの基地建設に反対の声を上げ、「基地建設反対」を打ち出して糸数慶子さんが衆議院議員に当選しました。
防衛施設局は座り込み「テント村」を週の内の3日は「表敬訪問」し、「作業をさせろ」と言ってきます。私達が「説明をしていただきたい。この8年間一度として国は私達に説明責任を果たしたのですか。」と住民説明会を再三に渡って要求しても防衛施設局(国)は一方的に「作業をさせろ」の一点ばりでした。それでもテント村の人達は人間としての誠意を防衛施設局に見せ続けました。
国と言えど人間同士なんだからわかりあえるはずだと。

座り込みには一日一日、日増しに人は増え、沖縄中からの支援や、全国の人々が駆けつけました。そこではこれからの時代や国に必要な大切なことが話し合われていました。辺野古の闘いの中で育まれているものはもしかすると次の世界を作るためのものなのかもしれません。毎日が希望に溢れている辺野古です。

座り込みが始まった4月19日から144日目、9月9日。防衛施設局は日米政府の要求に応えるため、調査に着手できない現実に焦り、沖縄の80%の人の思いを踏みにじり、ついにボーリング調査に着手するために作業船を動かします。卑怯にも作業船は沖縄の南部に位置する佐敷町の馬天港からの出港でした。辺野古漁港からは大型船数隻が作業船の警戒にあたるために出港。
私達も作業を止めるために阻止船2隻とカヌー9艇で向かい打ちます。
警戒船4隻をダミーに使い、作業船2隻が作業を着工するというとてもとても卑怯な手を使ってポイントブイを落とす作業に入りました。
防衛施設局は「作業を開始した」という既成事実を作るためだけに6つのポイントブイをおとしました。
それから現在にいたるまでの熾烈なくい打ちをさせないための攻防戦が始まります。

9月9日以降ヤグラ建設のための調査を止め続けていました。防衛施設局はでたらめな調査にもかかわらず「ボーリングヤグラ建設のための調査は終了」と発表。11月16日外洋のくい打ちのための作業台船を辺野古へと突入させてきました。
私を含む2隻の阻止船が作業台船の前に入り辺野古への突入を阻止しようと試みました。防衛施設局(国)が「阻止船をつぶせ」という指示を出したのか、作業台船は速力を落とさずまさに私達を潰しにかかってきました。阻止船2隻は作業台船に激突され、2度にわたって転覆しそうになり、私は「死」を覚悟するほどでした。
その時の様子を11月16日の日誌に「死を覚悟した時に「生き抜いて帰って来い」おじぃ、おばぁたちの声が聞こえました。生き抜かなければいけない!!死ねない!!声を上げながら無理やり、ハンドルを左に切り、何とか体制を取り戻し、作業台船に飲み込まれそうになる船をそこから離しました。」と私自身が書いています。
その後も阻止船に乗っていた2人が作業台船の前に飛び込み作業台船にアンカーを降ろさせとめました。アンカーを降ろしても作業台船は勢いで止まることが出来ず、30メートルほど進み、危うく2人が作業台船の下敷きになるところでした。2人のとっさの判断が功を奏し生命が奪われることはありませんでした。その時に作業台船の上にいた作業員達は薄笑いを浮かべていました。私達が死に掛けている時に・・・
この基地建設が戦争と同じく作業員の人格さえも破壊していることを痛感させられる出来事でもありました。
私達が阻止船を出す前におばぁ達が海の神に祈りを捧げてくれていました。私は何よりもその姿に心打たれ、おばぁ達の姿勢が「もうだめだ・・」と思った弱い自分をカバーしてくれたのです。この闘いは「生き抜かなければならない」生き抜かなければ勝ちではないことを思います。
愛する人のために生命を賭ける覚悟。しかし、愛する人のために生き抜くという覚悟。
私の愛する全ての人達を守るとは生き抜いて初めて証明されていくものだと感じています。

防衛施設局はその後も強行的にヤグラ建設を行い、1ヶ月に渡ってカヌー及び阻止船を使ってとめ続けました。


12月29日に続く・・・
激動の一年を振り返る。その22004,12,29
12月に入り、サンコーコンサルタント、パシィフィックコンサルタンツは防衛施設局の指示のもとで暴行行為が激化しました。そういう中で4ポイントのヤグラ建設を強行しました。
作業台船2隻は12月1日に台風27号の影響で中城湾港へと戻されています。
12月7日には女性が阻止行動の行動中にしがみついていた両腕を鉄筋から外され落下し頭部を強打しました。偶然にもその女性がヨガの先生をしており体が柔らかかったために大事には至らなかったものの2週間は絶対に安静という状況がありました。
12月9日には私と共に阻止行動をしていた男性に作業員が殴る蹴るの暴行行為を繰り返しその男性は腰を痛めました。
次の日の12月10日にはまたもサンコーコンサルタントの作業員が男性をヤグラから引き釣り落とし、男性は海中の鉄筋に頭部を強打。一時的に意識を失い、息もありませんでした。急遽、私が漁港まで搬送し、すぐさま救急車で運ばれ大事には至りませんでした。
私達はこの理不尽な横暴に怒り、全国的にこの業者及び防衛施設局に対して抗議行動を起して欲しいと訴えました。
ヤグラから落とされた2人は落とされた直後に「調査を中断してくれ。」と訴えていました。私達はその思いを受け止め、引き受け阻止行動にこの怒りをぶつけることを確認しました。

それでも現場では連日くい打ちがされるか否かのギリギリの攻防戦が続いていました。
そんな中12月13日(月)に国頭、宜野座、金武、石川の海人達が辺野古の闘いに参加するために総決起しました。
今までたったの2隻で阻止行動をしていたことがうそのようになりました。4ポイントあるやぐらにはそれぞれ4隻以上の阻止船がはりつき、完全に作業をさせない状況を作り出したのです。
数日たたない内に海人達の参加は増え、東村からも駆けつけてくれるようになりました。沖縄本島の東海岸側における海人達の総決起でした。
「この海を潰すことは許さない」その一点で集まった海人達。シンプルですが、その言葉の重みは誰よりも重いものでした。
渡嘉敷島の灰谷健次郎氏からも「ナイワイ丸」が辺野古に送られ、辺野古の阻止船の1つとして闘っています。
朝、船で海上に出るとこちらに船がたくさん駆けつける姿は何度見ても涙が出ます。私はトラウマというか癖というか、船団を見るといまだに「作業船が来た!」と思ってしまいます。
小さなレジャーボートで大型船8隻を相手にしていたこともありますから致し方ないかもしれません。
国頭の海人が辺野古の海人から「ここはわったー達の漁業権がある場所だ!!国頭の海人は出て行け。」と言われた時に言い返した言葉。
「辺野古の海人よ、知っているか。漁業権とは海を破壊するためにあるんじゃない。海を守るために先代達が築いたものだ!!この海を破壊することに参加して、魚達に顔向けが出来るのか!!」
海人だからこそ語れる言葉。
海人達から色々な話しを聞くにつれ彼らが辺野古のこの8年間を知っていて、ずっと見ていたことを知りました。
「海を守るために動き出すときが来た。」海人達は時の訪れを垣間見ていました。
そう、その時が来たのです。

くやし涙ばかりが流れていた今年。最後をうれし涙で終えることが出来ました。

全国で沖縄で。

東京で。座り込みが始まってから「この問題の根っこがある東京でも座り込みがあっていいんじゃないか。いやあるべきた。」という論議が続いていました。
海上での攻防が始まろうとしている8月、平良夏芽さんは国会前で座り込みをすることを決めました。「辺野古の基地建設を止めるには東京を変えなければならない。」その思いで。
東京では辺野古についての国会行動や施設局に対する申し入れ、抗議行動、地域で訴えることはずっとつづけられていました。
そういう中でしかし、基地を押し付けている人として沖縄、辺野古の問題について責任ある行動をとって欲しい。今の行動だけが限界、それだけではならない。沖縄の人々の思いは東京の人達を奮い立たせる結果につながりました。沖縄の問題を大和の責任、日本全体の問題として多くの人達が東京で東京を変え始めています。
国会前での座り込みは150日を超え、現在も続けられています。

大阪で。亜季ちゃんが辺野古に来たのは1年と半年前のことです。彼女は今、私達にとってなくてはならないかけがえのない大切な存在となりました。
大阪で大学生をしていた亜季ちゃんが辺野古に来て多くのことを学び、4月19日にも駆けつけてくれていました。1週間で帰る予定を2ヶ月間と延ばしてもらい、あの厳しい中を懸命に支え、助けてくれていました。
そういう中で彼女は「大阪で何かをしたい」と大阪に帰っていきました。
亜季ちゃんは大阪を確かに変えました。
JR大阪駅前は1週間に一度、多い時で40人もの人達が集まり、ギターを弾き、署名を集め、多くの人達がマイクを握りときには小学生が訴え、ビラを撒いたりしています。
決して一人の力ではない。でも大阪を変えることも亜季ちゃんがいなければ出来なかった。
「一人が変わることが世界を変える」彼女は僕達に多くのことを教えてくれました。

京都で。京都でも「京都緊急行動」と銘打って、辺野古を訪れた大学生達や多くの人達が集まり、行動を起こしています。駅前や人が集まる場所などで街頭宣伝などを週に一度やっています。
辺野古にも手伝いで京都から多くの人達が訪れてくれています。とてもとても助かっています。

名古屋で。名古屋から来てくれていた女性が辺野古の問題をつなげようと報告会や集会を開いてくれています。本当に心強いです。


12月30日に続く・・・
激動の1年を振り返る。その32004,12,30
12月30日(木)

沖縄県内。
県内では辺野古以外の場所で県庁前での座り込み、山口洋子さんが那覇防衛施設局前でのハンガーストライキ(断食の座り込み)を10日以上も続けました。
県内の大学生達も動き出しています。沖縄大学では「辺野古クラブ」というサークルができ、辺野古を懸命に支え、辺野古の問題を持ち帰り学校で広げてくれています。沖大生は辺野古でも一緒になってヤグラに上りとめ続けています。本当に心強く、県内の大学生が動いてくれていることで私達にとっての大きな希望でもあります。
那覇のパレットクモジ前では県内の専門学校に通う男性が一人で「辺野古座り込み何日目。座り込み参加者募集」の看板を持って訴えています。
その他にも多くの行動が起き、集会が開かれ、辺野古の闘いは島ぐるみ、全国ぐるみへと発展していっています。

全国で来年はさらに多くの行動を起こしていかなければなりません。呼びかけあい、人を繋ぎましょう。

今年は本当に多くの出来事と共に過ぎ去っていきます。
どんな言葉でも全てを言い表すことは出来ません。いえることは1つだけです。杭をいまだ私達は一本も打たせていません。私達は今年勝ったのです。国という大きな存在に。
沖縄から、全国から互いに助け合うという関係を作り出し、その中で多くの人達が立ち上がり、辺野古に集まりました。海人が集まり、海上でも状況は覆り、それは来年へと確実につながっていくものとなりました。
完全に基地建設を止めるために後一歩のところまで来ています。
しかし、本当に基地建設を止めるためにはまだ力が足りません。
イラクへ自衛隊を派兵するという戦時下の日本の中で辺野古の基地建設は戦争をとめるか否かの最大の決戦の場所となっていきます。国は自らの命運のために必死になって私達を潰そうとするでしょう。しかし、沖縄の怒り、人としての怒りはそんなもので潰れるものではありません。
そのことを命を守る会のおじぃ、おばぁ達の8年間が証明しています。海人が証明しています。日本で共に行動して下さっている全ての人々が証明しています。
私は人を信じ続けます。この辺野古が戦争や差別を失くすための大きな希望になっていることを信じています。
命を守る会の忘年会の席で命を守る会の78歳のおばぁが「7年間頑張ってきました。また明日から頑張りたいと思います。」と話しました。一言だけですが、涙が溢れました。その言葉を受け止めて来年もさらに良い年にしたいと願っています。
この闘いは絶対に勝てます。それが確信に変わった年なのだとまとめたいと思います。

この日誌を一年間という長い期間見てくださっている全ての皆様へ。未熟な文章を温かい眼差しで受け止めてくださり心から感謝いたします。
来年も皆様と闘いの場で出会い、分かち合い、そして闘いのない平和な場で出会えることを切に願います。これからもよろしくお願いいたします。

イラクの人々へ、大和人である私は沖縄の人々へ、世界ので差別され殺されている全ての人々へ、心から愛する人へ、私は大きな謝罪の意を込めてこの理不尽な社会を世界を変えるために行動し続けることを誓います。辺野古の基地建設を止めることを誓います。

最後に立っているのは私達だ。絶対に負けない。
来年はもっと楽しい一年にしましょう!!!


終わり。

2005年「街」日誌へ
 沖縄・名護・辺野古の美しい海を埋め立て作ろうとしている新しい軍事基地建設を止めさせるために、おばぁたちが座り込みをはじめてから8年と200日以上。その怒りを正面からうけとめもせずに国は、ムリヤリ、かなりボーリョク的に着手し、調査のために建てられた5コのやぐらは、すでに海中のサンゴをふみくだいている。日本の各地で、世界で、この基地を作ることに対し、抗議の声がうずまいているとゆーのに。

 今、辺野古では、陸上での座り込み、海上・海底でのカヌーや船を使った阻止行動がつづけられており、那覇、大阪、京都、名古屋、東京では座り込みなどで辺野古のことを訴える活動が広まっている。これらを通じて辺野古を知り、これをじぶんの問題として重くうけとめた若者たちが辺野古にあつまり「カヌー隊」として活躍しはじめているところだ。

 弟のシュウは、船の免許をとり、「阻止船」を操縦している。巨大な作業船が辺野古に現れた日、通らせまいと、台船の進路に立ちはだかったが、台船は停まらず、シュウの船は何十倍もの大きさのその船に突撃、間一髪転ぷくはまぬがれたという。数年まえまでいわゆる「不登校」だった弟は、幸運なきっかけを得て、沖縄に行き、沖縄のかかえる問題を知り、辺野古のおばぁ達に出会った。おばぁ達に、学校では教えてくれないいくつものことをおそわり、「戦(いくさ)やならん、命どぅ宝(ぬちどぅたから)」とおそわった。これ以上、おばぁたちに、基地を苦しみを座り込むことをおしつけたくない、たった1人になってもここに立って止めよう、命をはってでも、と決めた。しかし、台船にぶつかる瞬間、シュウの頭をよぎったのは「かならず、生きぬいて帰ってきなさい、なにがあっても」という、おばぁのコトバと、大切な人たちの顔の走馬灯。死ぬわけにはいかない。なにがあっても生きていること、それ以上に価値あるものはない。おばぁの言葉の意味すること。弟の死がもたらす悲しみは、おばぁたちをも殺しかねないのだ。

 恋人のユウスケは、カヌー隊で、海上でのすわりこみをするため、名護でくらしている。ある日、仕事をやめ、彼は「辺野古に行こうと思う」と言った。それは、唐突ではあるがまるで必然のようだった。生活=お金のための生活をやめて、イメージに近いほうを選ぼうとしていたユウスケ。辺野古のことは知っていた。基地ができれば、もちろん自然はこわされ、それ以上に人がたくさん死ぬ。ねがいは、ただ、「幸せになること」。だからこそ、目の前に見えている脅威を見てみぬふりをして自分を偽ることはできない。ほんとうに幸せになりたいから、止めに行く。それが、ユウスケのイメージだ。ものすごくシンプルに、「好きな人を失いたくない、悲しませたくない」から、この不穏な世の中の流れを止めるために動く、その中でいま1番焦点になっているのが辺野古だったのである。

 東京の国会前座り込みで知り合ったアユさんは、バッグパッカーを夢見てお金を貯め、その仕事をやめたばかりで辺野古へ行き、今のところ彼女の旅は辺野古でとどまっている。

 カズマサ君は、仕事をやめてから、地元・名古屋と辺野古を行き来し、名古屋では街頭アピールなどで広め、辺野古では、はげしく船酔いしながらも必死で阻止行動をしている。

 サチコは施設局側の作業員との攻防で1度、指を3cmきり、流血したが、今日も笑顔で海に出て行き、カヌーをこいでいる。

 彼らは全員20台だ。若いからと言って失うものがないわけではない。仕事も、恋人もギセイにしてきている。
家族や友人の理解が必ずしも得られるわけではない。経済基盤も保障ももちろんない。
彼らはなにも好き好んで「たたかい」に来ているのではない。それぞれの意志で来ているのは確かだが、闘いたくて
闘っているわけではないのだ。ほんとうなら、好きな人と好きな場所で心おだやかに暮らしたい。
世の中が本当に平和なら、やりたいことは他にもっとある。
 それでもかれらが辺野古に来るのはなぜか。
 どうしても、今止めなければならないから。
 人の命をなんとも思わない人々がゆるせないから。
 命が大切と言うことだけは、どーしてもゆずれないから。

 私自身は東京で店を持ち、そこから発信していくために東京でやることに決めたため、辺野古には行けない。
先日も顔を蹴られるなどの暴行をカヌー隊メンバーが作業員から暴行を受けたとの報道があった。
東京で、はなれた場所でそのようなニュースを耳にすると、怒りとかやりきれなさが体中をうずまいて
いてもたってもいられない気持ちになります。今すぐにでも辺野古に行きたい。
 ケガさせられたり、あるは殺されたり、捕まったり。自分の大切な人がそんな目に、いつ合わされるか分からない状況
の中で、日常をおくらなければならないのが辛い。はなれていて手と足もだせない、叫んでも届かないのが辛い。
 ものすごく個人的な話ではある。
でも、自分の大切な人のいのちが大切なのは、誰でもあてはまるはずである。
自分の周りの人を大切に思うことと、戦争をなくそうと思うことは同じことだ。
大切な人が死んだらイヤだ。だから 戦争はやめよう、基地はいらない。
足りないのは、あと少しの想像力。イラクやアフガニスタンで、パレスチナで、亡くなった人々の周りの気持ち。
周りの人々のきもち。悲しくないわけがない。怒りがわいてこないわけがない。

 もう一度 問いかけます。辺野古の若者たちの「命を守るたたかい」にあなたは何を思いますか。 
 私たちは、辺野古で闘う若者たちの友人・知人・家族として、彼らの生活を支えるためのカンパを訴えます。
彼らが心置きなく行動するためには、1人・1ヶ月の生活資金・5万円ぐらいかかります。5万円×5〜6人を毎月作りたいと思っています。

 東京の「街」では、できるだけ多く地域の人たちが参加してくれるために「100円カンパ」を始めました。
 家族会も結成されました。

 ご協力をよろしくお願いいたします。
 ヨッシー(友人)、佐竹周一(友人)、中野高(友人)、富田直子・剛・翔子(家族会)、赤羽則子(家族会代表)、ハネやん(家族会)、末木(家族会)、11/29 現在
郵便局 10020−84023361
赤羽 則子





inserted by FC2 system